ローマの公園や、美術館にその名を刻むボルゲーゼ家は、イタリアの美と伝統を育んできた名門貴族です。中でも、名家の知性と気品を受け継ぐプリンセス マチェラ ボルゲーゼは、ヨーロッパ美容界のスペシャリストとして知られています。

彼女が着目したのは、ローマ時代からヨーロッパの3大温泉地として名高い、イタリア北部のトスカーナ地方の高級スパリゾート地、テルメ デ モンテカティーニ。
天然ミネラル成分を豊富に含んだ鉱泉は、「アクア デ ヴィタ(生命の水)」と呼ばれ、皮膚の病をいやして素肌を若返らせることで訪れる人々の賞賛をあつめてきました。 プリンセス マチェラ ボルゲーゼは、この自然治癒力に着目し、最新の皮膚医学の考えを取り入れて、スパケアが手軽に体験できる化粧品を開発しました。

豊かな感性でのびやかに今を生きる女性たちの美しさを引きだすボルゲーゼのスキンケアには、プリンセス マチェラ ボルゲーゼの「美への夢」がこめられているのです。
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1233年 / イタリア、シエナにボルゲーゼ家興る
   弁護士、大使、裁判官等、国家の要職につく人材を多く輩出し、ヴァチカン宮殿内部との関係を深める。
16c/ マルク アントニオ ボルゲーゼが、本拠地をシエナからローマに移す。
1605年 /

マルク アントニオ ボルゲーゼの長男カミーロが、ヴァチカン宮殿の枢機卿を経て、ローマ法王の最高顧問になると同時に、当時これ以上望めない程の権力を手にする。
法王「ポープ・レオ11世」崩御の後、カミーロがローマ法王「ポープ・パウロ5世」となる。
パウロ5世の甥のシンピオーネ ボルゲーゼは美術に造詣が深く、1615年ローマに建てた別荘に多くの美術品を集め、パトロンとしても有名であった。このコレクションは現在、「ボルゲーゼ美術館」となっている。
ローマでは「ヴァチカン美術館」に次ぐコレクションを所蔵していることで名高い。
(彫刻家カノーバの代表作パオリーナの全身裸像もここに所蔵されている)
また、この美術館がある広大なボルゲーゼ公園は、シンピオーネが造った豪壮な庭園。現在、この総面積6kuの敷地には森や池、馬事公苑、博物館、動物園などが散存し、いつも多くのローマ市民が散歩を楽しんでいる。

19c / ボルゲーゼ家に、ナポレオンJ世の妹"パオリーナ"が嫁ぐ。フィレンツェのボルゲーゼ宮殿で全市を挙げた宴が催される。
(この宮殿は現在、州のツーリスト・ガイド・センター指定建築物になっている。)
1936年/ 現在の当主であるプリンセス マチェラ ボルゲーゼが、プリンス パオロ ボルゲーゼと結婚。
1956年/ 当時欧米で発売されていた口紅やネールエナメルは、カラーバリエーションが少なく時代遅れの単調なものだった。 そこでプリンセスは、「宝石のような色合い」を創り出すようにボルゲーゼ専属の化学者に命じた。
(ボルゲーゼ家歴代のプリンセスたちは、自宅にハーブ園と専属の化学者を所有して独自の化粧品を製造させていた。特に19世紀に嫁いできたナポレオンJ世の妹パオリーナは、熱心に独自の美容法を研究していたことで有名である。)
そうして出来上がった口紅やネールエナメルをプリンセスがつけると、たちまち社交界で話題となり、たくさんのリクエストが殺到した。 彼女は喜んでこれを引き受けたが、その依頼は日を追うごとに多くなり、プリンセスも化学者も需要が追いつかない程になっていた。
同じ頃、ボルゲーゼ夫妻は、アメリカ旅行を計画。
夫妻が渡米する以前に彼女の友人がプリンセスの化粧品をつけて渡米した為、プリンセス自身が気づかないうちに、ニューヨークの社交界でも、プリンセス マチェラ ボルゲーゼが最高に美しい口紅とエナメルを造っていると評判になる。
この時期のプリンセスと、その評判を聞きつけた「REVLON」創立者チャールズ・レブソンとの出会いこそが、ボルゲーゼ化粧品のブランドビジネスのはじまりである。
1970年/ 最高級化粧品ブランドとして、世界中の女性たちから注目される「プリンセス マチェラ ボルゲーゼ」の誕生。
1975年/ プレステージブランドとして、日本に登場。
1981年/ 天然ミネラルを化学的に配合し開発されたスキンケアライン“HYDRO MINERALI”(=ハイドロ ミネラーリ)を発表。
1986年/ “Terme di Montecatini”(=テルメ デ モンテカティーニ)のライン、日本に登場。
1997年/ ホワイトニング スキンケアラインの“Terme Bianco”(=テルメ ビアンコ)発表。
 
会社名 株式会社 コスメディア
本社 東京都港区南青山3-18-16
代表者 林 雅峰
資本金 9,900万円
設立日 1986年11月18日